まとめ
見たい人はもうみんな見てるころなので感想を書きます。ボーン・レガシーはボーンシリーズの 4 作目で監督と主演の俳優が降板しています。その結果としてこれまで脚本を書いていた人が監督になり、主演の俳優はジェレミー・レナーを連れてきています。
旧作の脚本家が監督をやるというアイディアは実際よいアイディアで、ジェイソン・ボーンは名前のみの登場であるにも関わらずきちんとジェイソン・ボーンシリーズとして成立しています。ジェイソン・ボーンがいなくてもスタッフの努力次第できちんとしたジェイソン・ボーン作品を作れるというのはかなりの衝撃でした。
ところで本作の世界はボーン・アルティメイタムの世界と時系列をほぼ同じであり、アルティメイタムとの明確な繋がりが見られます。ところでボーン・アルティメイタムでは以下のようなセリフがあります。
"phone, blackberry, apartment, bank accounts, credit cards, travel history"
字幕: "電話 PDA アパート 銀行預金 カード 旅行履歴"
これはなんてことのないセリフのように見えますが、実は問題があります。「Blackberry」をみんなが持っていて当然という時代背景が出てしまっているのです。また登場人物が携帯電話を使うシーンもあり、そこにも時代背景が濃厚に出てしまっています。
レガシーにおいてはアルティメイタムによって示された「時代背景」は無かったことにされています。またレガシーにおいて新たに時代背景が浮き出てしまうことがないようにかなり注意して演出されていることが伺えます。
しかしながら、 CIA の情報管理が杜撰であることを説明する為に極秘の内容が含まれる動画が Youtube に上げられていたという展開がありました。この用心深い映画において「数年後だろうが Youtube は使われているだろう」という前提でこのシーンが作られたことが推測されますが、その動きを非常に読み難いのがテクノロジー業界の特徴です。明らかに続編が企画されている本作においては悪手だったのではないかと思います。
最後に作品そのものについてですが、非常に優れたものであると思いました。この手のスパイアクションにおいて「完璧な主人公」というのはアクションを盛り上げるのを助ける要素です。しかし完璧な主人公に観客が共感することは難しく、ストーリー性とアクションの盛り上がりはトレードオフになりがちです。
ジェイソン・ボーンの記憶を失なっているという設定は、最強の完璧の暗殺者である主人公がまるで普通の青年であるかのように悩むというありえない展開にそれらしさを与え、観客はジェイソン・ボーンに共感することが出来ます。優れたアイディアであるとい言えるでしょう。
なんらかの「弱味」を上手く登場人物に与えることでストーリーを盛り上げるわけです。これは定石といえます。
本作の主人公「アーロン・クロス」に与えられた「弱味」は「必死」です。彼は薬によって知能と体力を強化された改造人間ですが、薬を飲まなければその力を失なってしまいます。ところでジェイソン・ボーンの一連の事件の結果 CIA はアーロンらの改造人間を処分することを決定し、アーロンの始末に乗り出します。 CIA から始末されそうになっている以上薬も供給されないわけで、アーロンは CIA から逃げつつ薬を追い求めるわけです。
ジェイソン・ボーンシリーズにおいては、ボーンが追手から逃げつつ CIA の陰謀の真相に迫るという「逃走」と「追跡」の二重構造があったわけですが、レガシーにおいては「CIA から逃げつつ薬を追う」という非常に単純化された形でその構造が維持されています。
そしてボーンをも遥かに越える最強の主人公、アーロン・クロスは何故か無様なまでに必死に薬を追うのです。このアーロンの描写は最初は彼をただの薬物中毒者に見せあまりいい印象を与えるものではありませんが、アーロンには「必死」の理由がちゃんと設定されています。
彼は騙されてこのプロジェクトに無理矢理参画させられた知的障害者なのです。つまり知能を強化する薬がなければ彼は知的障害者に逆戻りしてしまうわけです。
この設定は非常に優れたアイディアです。アーロンの肉体的な素質がボーンを遥かに越えることはダイナミックな映像によって表現することが出来ますが、ボーンより知能が高いことを表現することは極めて困難です。実際ストーリーの序盤から中盤においてアーロンの高い知能が伺われるシーンというのはありません。しかしながら「もともと知的障害者」であればアーロンの知能が高い描写がない理由にも納得できるというわけです。
ただこの設定に私は非常に違和感というか憤りを覚えました。ジェイソン・ボーンシリーズは結局のところタイトルの通り「自分探し」の物語であるといえるでしょう。記憶を喪失するという最大のアイデンティティの喪失を経験した主人公が、自分は誰なのか、ひいては人間とは何なのかを追求する物語です。
本作においてもその流れは引き継がれていると言うべきでしょう。アーロンは明らかにボーンと同じく「アイデンティティの無い存在」として描かれています。知的障害者という設定はアーロンのアイデンティティの不在を描く道具として利用されています。端的に言えば、知的障害者にはまともな人格が無い、と描かれているわけです。
この物語にはもうひとりアイデンティティの不在を描かれる人物がいます。ヒロインのマルタ・シェアリングです。マルタは科学者であり、身もよだつような人体実験に従事し、実験の対象を名前ではなく番号で認識し、必死さをみせるアーロンに対しては「自分は論文を発表することもできないのだ」などと反論するキャラクターです。人間性を失なった科学者として描写されます。本作においてマルタ一人がそのような科学者と描かれるわけではなく、マルタの同僚や上司達もそのような存在であると描かれています。
では本作が主張する「アイデンティティ」とは何なのか。それはメインキャラクターが男性と女性であることからも容易に分かります。恋愛です。恋愛をすることこそがアイデンティティの発露なのだということは序盤においても示されます。
序盤においてアーロンは自分を暗殺しようとする工作員と接触します。しかしその工作員は思わせ振りな態度を見せ、アーロンを殺そうとしません。アーロンは工作員の様子から全てを察し彼に質問を投げかけます。「お前はこんなところに左遷されているようだが、恋愛のせいか?」と。ボーン・アルティメイタムで描かれた通り「命令されたからといって人を殺さないこと」は人間性の発露であり、そのように人間性を発揮する名も無き工作員が恋愛をしていたことが示されるわけです。
誰もが予想する通りアーロンとマルタは最終的に恋に落ち映画は終わります。つまり本作をギリギリまで切り詰めてまとめると「知的障害者と科学者というまともなアイデンティティを持たない人達がいろいろあった挙句恋愛をするようなまともな人間になった」といったところでしょうか。知的障害者と科学者の描き方はリアリティを持たせているように見せかけつつ限界までカリカチュアライズされており差別的ですらあります。
僕は本作を極めて面白い映画だと思いましたがストーリーのこのような部分についてはかなり不快感を抱きました。
いずれにせよジェイソン・ボーンシリーズとして要求される品質、要素は本作にも全て盛り込まれており、見る価値のある映画と言えるでしょう。