ssig33.com

プロメテウスの感想、あるいは何故リドリー・スコットは劣化したのか

プロメテウスの感想はまあいいや。 CM に騙された人は御愁傷様ということで。

僕はプロメテウスを見たのがそもそも二ヶ月以上前のことなので割ともういろいろ忘れてます、人類もエイリアンもスペースジョッキーに作られてたんや!!みたいのはまあ覚えてるんですが。

んでもって、

みたいな意見を比較的よく見る気がします。ただそれはちょっと違うんじゃないかなーと思うわけです。

グラディエイターとロビン・フッドはどう違うか?

グラディエイターはよくも悪くも剣とサンダル映画の到達点と言えるのではないかと思います。主人公マキシマムの復讐は作中において全く正当なものと扱われます。トラウマを振り翳すグロテスクないかにもリドリー・スコット的人物コモドゥスは、副主人公的な人物ではありますが、あくまで悪役でしかない。コモドゥスは何一つ得るものもなく罵倒の中コロシアムに倒れる。

グラディエイターは勧善懲悪のエンターテイメント超大作と言えるでしょう。

翻ってロビン・フッドはどうか。この映画はまず時系列の上で明確にキングダム・オブ・ヘヴンの続編として描かれています。キングダム・オブ・ヘヴンは御存知の通り十字軍の大義を徹底的に批判した映画です。よってその流れを汲む本作ではライオンハートは徹底した悪役として描かれます。

ライオンハートが悪役ならば、失地王ジョンはどうなのか、尊厳王フィリップはどうなのか。これも悪役として描かれています。ジョンはコモドゥス的な柔弱なのろまにすぎません。フィリップは侵略を企む邪悪な策士として描かれる。

ではこれら時代の王が悪役ならば、ロビン・フッドはどうなのか。ロビン・フッドの印象はあまり作中で残るものではなく、時代に抗おうとするも結局は時代に流される森の民というような印象しか残りません。

そして僕が極めつけだと思ったのがマグナカルタが発布されるシーンで、このシーンで権利を認められるのは史実通り「貴族のみ」ですし、マグナカルタ自体失態を重ねたジョンが貴族を懐柔する為に苦し紛れに出した、というのが比較的冷静に描かれています。

これを纏めると、この映画では「イギリス的なおとぎ話や正義」というものが徹底的に否定、破壊することが主眼に置かれているのではないかと思えてきます。イギリス人よ目を覚ませ、お前達が信じているものはゴミだ、というような具合。

誰が見ても面白い気持ちのよい娯楽大作だったグラディエイターとは大分違うのではないかと思います。そしてグラディエイターと比較すればグラディエイターの方が面白いと考える人が多いのではないかと思います。イギリス人にしてみればこんなものは不快でしかないし、イギリス人以外にしてみればロビン・フッドやライオンハートやマグナカルタなんて知った話じゃありません。

エイリアン、ブレードランナー、松田優作、ソマリア人、イスラム教徒、プロメテウス

エイリアンにおいて真の悪役がロボットと日本人だったことはファンには広く知られる事実です。ブレードランナーにおいても「強力わかもと」の看板にはじまり、「日本人の作ったメシを食うしょぼくれたアメリカ人」が「戦いの末にコカコーラの看板の下で立派な男になりレイチェルと結ばれる」というストーリーの骨子といい、悪役タイレルのいかにも日本人的な外見、価値観といい、日本人への蔑視と恐怖を感じます。

こうしたリドリーの日本人への蔑視と恐怖はブラック・レインによって完全に解消されたことが伺えます。非欧米人というもっと広げた視点で見てみれば、ブラックホーク・ダウンにおけるソマリア人の描写やキングダム・オブ・ヘヴンにおけるサラーフ・アッ・ディーンの英雄的な描写などから、非常に広範で公平な視点を得られたことが伺えます。

ではエイリアンの続編、プロメテウスにおいては、こうした流れを踏襲し、アジア人とロボットは好ましい、善なる存在として描かれます。こうした善なる存在と相対するスペースジョッキーやエイリアンらはその善悪すら作中では明確に描かれていません。

またスペースジョッキーや巨大なフェイスハガーに男性器的な特徴が見られないというのもこの映画における特筆すべき点なのではないかと思います。

エイリアンとプロメテウスを比較した時にストーリーの整合性という点ではどっちも正直微妙という感じですし、ビジュアルや映像という点では共に時代最高峰の水準と言えるのではないかと思います。結局のところエイリアンとプロメテウスの最大の差は「アジア人やロボットへの恐怖、男性器の力」という明確なテーマがエイリアンには存在し、プロメテウスには存在しないという点なのではないかと思います。

まあようはシャーリーズ・セロンやガイ・ピアースではキャラが立ってないということです。

正義や悪の不在

物語において、正義と悪が明確に分かれているというのは面白さを保証する重要なポイントなのではないかと思います。現実に正義と悪が明確に分けることは出来ないのだからなどと口で言ったところで正義も悪も存在しない物語を描く為には、正義も悪も超越した絶対的な何か(それは物語のテーマかもしれないし、筆力/画力/演出力かもしれないし、演者や作画者の圧倒的な技量かもしれません)が必要なのではないでしょうか。

ロビン・フッドには正義が不在で、プロメテウスには悪が不在です。そしてこれらの映画はキングダム・オブ・ヘヴンのようにそれを圧倒するテーマ性があるわけでもなく、ブラックホーク・ダウンのように圧倒的な戦闘の迫力があるわけでもない(そしてキングダム・オブ・ヘヴンにせよブラックホーク・ダウンにせよあれらの映画で用いられた手段は二度と使えるものではありません)。

リドリー・スコットはかつて英米欧的な正義を絶対的に信じていたように思えます。有名な Apple の CM 元ネタからして共産ロシアへの嫌悪が背景にあるわけですし、エイリアンやブレードランナーには日本人への恐怖と蔑視がある。映像に圧倒的に傾き分かりづらい彼の映画には実はそういう背骨があるからこそ世に受け入れられたのではないかと思います。その彼がここ十数年ほどは正義と悪の在処に延々と悩み続けるような映画を作っているというのは監督の人格的な成長を感じるところではあります。

しかし創作物の面白さというのは創作者の人格的成長と比例するものではありません。むしろ反比例することもある。

リドリー・スコットが劣化したといえば、確かにそういう面はあるかもしれません。しかし彼は粗悪な自己模倣を繰り返しているのではなく、自己模倣の形を取った自己否定を繰り返しているのではないかと僕は思います。

back to index of texts


Site Search

Update History of this content