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劉備は直接の指揮下の兵一万で南側にある張郃の陣営を夜襲するも張郃の陣営は陥せせなかった。んでこの張郃の陣営は夏侯淵の本営からはそんなに離れたところにある訳ではなかった。
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劉備は走馬谷の陣営を焼き払って、張郃を再び攻撃した。走馬谷の陣営を焼き払ったということの意味。定軍山の地形から考えるに、走馬谷の陣営ってやはり劉備自身のものなのだろうか。走馬谷を焼き払ってそれを牽制として張郃を攻撃したという意味なのかなこれ。
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張郃が劣勢になったので夏侯淵は指揮下の軍の半分を援軍に回した
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法正は劉備に攻撃を進言
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劉備は夏侯淵を攻撃した。んでまず夏侯淵の陣営の裏の十五里離れたところにある逆茂木を焼き払った。
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夏侯淵は四百の兵を率いて自ら逆茂木の修理に出た
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黄忠は高所に強引に登って夏侯淵を背後から襲撃した。夏侯淵が逆茂木の修理に出てたということと強引に登ったという記述を考えると、本営側から無理矢理侵入して逆茂木を修理中の夏侯淵を背後から襲ったということだろうか。
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夏侯淵は更に兵を迂回させて背後からこれを迎え討とうとしたけど打ち破られて戦死した。
史書から分かるのはこれだけ。夏侯淵は死んだけど張郃が軍を引き継いだと史書には記されているけど、張郃が夏侯淵戦死後どこにいたかは史書からは分からない。
まあでも史料からだけでここまで細かく推測することが出来る。
んでここで気になることがいくつか。まずこの戦い小規模すぎないか?戦域はめちゃくちゃ狭いし、張郃を攻撃しつつ夏侯淵を逆茂木側と本営側から攻撃した以上劉備は部隊を三つ以上に分けているはずなのに、史書に名前の登場する将帥は黄忠一人だけ。その黄忠もこの時点では将軍というよりは将校みたいな身分。黄忠は夏侯淵を討ち取ったから有名になったというだけで実際は結構小物。
ここで想像出来ることは一つ。劉備は張郃の軍を襲撃した時に出ている数である一万だけでこの戦いを戦ったんではなかろうか。
そして気になることがもう一つ。武都争奪戦あたりまでは活躍している徐晃がどこにもいない。
張飛や馬超もどこで何していたのか分からない。っつーことは張飛や馬超は別のところで徐晃と戦ってたんじゃなかろうか。張飛と馬超を使って徐晃を引きずり出して、劉備は親衛隊を率いて夏侯淵を自ら攻めた。でも劉備軍も長い戦いで疲弊していて夏侯淵を奇策で討ち取っても結局夏侯淵の本営や張郃の陣営は陥せなかったというところじゃないだろうか。これは病気で寝てた郭淮が無事だったことから想像できる。
小説やらゲームやらのイメージでは蜀軍が総力で夏侯淵を攻めて定軍山を奪って夏侯淵を殺した、みたいなイメージがあるけど、史料を整理して考える限り、長い長い持久戦の果てに疲弊した両軍がちょっとした戦闘をしてはずみで夏侯淵が死んでしまった、という風に感じられる。
あるいは。一万で漢中守備軍本営を攻めて主将を殺したということは劉備軍はこれまでにかなり夏侯淵軍を追い詰めていたということだろうか。いずれにせよ時間的(夜襲をして昼間に一戦して終わりなので十数時間の短い戦いだ)にもそう大規模な戦いだったという訳ではなさそうだ。
それにしても目立つのは夏侯淵の軽率さだ。逆茂木が焼かれた程度のことで最高指揮官が僅か四百の兵で最前線にまで出ていって、そして背後から襲われるや今度は更にこれを迂回しようとしたり、前線での指揮にはかなり問題があるように見られる。
しかし張郃の救援に手勢の半分を差し向けたことを考えると夏侯淵の手元には二三千の兵しかおらず、逆茂木の補修やその方面の防備には四百の兵しか出せないという状況だったのかもしれない。いずれにせよ最高指揮官の最大の使命は死なないことなので、自分の守りを薄くして部下を救い、さらにその中から少数で前線に突っ込み、一度は更に迂回して危機を脱したのにもう一度背後から敵軍に突っ込んで戦死するというのはかなり指揮能力に問題があるように思える。
ところで以上のようなことを取り上げて夏侯淵は軽率で突っ込むだけが能のアホ将軍だったというような評価がなされることが多いのだけどそれは違うんでねーのと思う。
夏侯淵について史書の記述に目立つのは、兵糧を監督しただとか、○○を指揮しただとか、行軍が速かっただとかそういう記述。んでその行軍が速いという記述をもって夏侯淵は騎馬隊を率いて敵に突っ込んでいく男だったとかそういうイメージが強いのだけど、よくよく読むと夏侯淵が自ら敵と戦ってる記録は殆ど無い。実際には配下についている張郃か徐晃が戦っている。
さらに拠点間の行軍が速いということを考えてみる。拠点間高速に移動するには、地形をあらかじめ調べて、兵の力を見極めて軍を編成して、最適な移動ルートを設定する、というようなことが必要になる。これってどちらかというと事務方の仕事だよね。
さらに夏侯淵は戦略的な提案を何度もしているけど、それも張郃や徐晃をどう戦わせるか、というような感じの提案が多い。
つまり夏侯淵の仕事というのは前線において高い戦闘力を持つ張郃や徐晃を投入して最大の効果のある戦線を見極め、そして高速に前線まで運搬して、張郃や徐晃が最高の力を発揮できるように兵糧を運ぶことだった、というのが見えてくる。
前線型の将帥のイメージのある夏侯淵だけど、実際には裏方だったということが見えてくる。従兄弟の夏侯惇も史書に出ている仕事を見ると、民政や留守司令官のような役割が殆どで裏方だったというのが分かる。曹操はこの裏方二人を高く評価して最高の地位を与えた(これが事態をわかりづらくした一因だと思う。曹操から高く評価されたということが二人は前線型の将帥だったというイメージの定着に一役果してると思う)。
しかし曹操は最後の最後で夏侯淵の使い方を間違えてしまった。夏侯淵は広い原野で張郃や徐晃を高速で運搬するというスタイルで戦っていた。でも漢中の山じゃ高速に運搬するもなにもない。劉備が常に攻めてくる状態では長安からの兵站も自分で面倒を見るどころの騒ぎではないだろう。夏侯淵は自分の持っている力を何一つ発揮できず追い詰められ、そして劉備軍と自ら戦うことになった。
そしてここで夏侯淵は前線での経験不足を露呈した。そういうことなんじゃないだろうか。夏侯淵の仕事は張郃と徐晃に最大の力を発揮させることで、あくまで前線での戦は張郃や徐晃がやっていたのだ。夏侯淵は前線での戦の経験が殆どなかった。だから軽率な失敗をしたのではなかろうか。突っ込むだけが能のアホだから軽率な失敗をしたのでは無いと思う。
というようなことを一日中考えて全く仕事をせずに一日を過しました。
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最終更新時間: 2010-03-16 16:18